ジャイアン映画版の理論というものがある。
普段のび太をいじめているジャイアンが、映画になると良いヤツになるというものだ。
映画を観た人たちは本当はジャイアンは良いヤツだったんだ、と思ってしまう。
だがそんなことはない。
たしかに映画でのジャイアンは良いヤツだが、彼は普段のび太をいじめている。
ジャイアンは普段悪いヤツだが、たまに良いことをする。
それが事実だ。
のび太をいじめるジャイアンと映画で活躍するジャイアン、どちらが本当のジャイアンということはない、どちらも本当のジャイアンだ。
あるいは不良が捨て猫に優しくしていると、その不良は本当は優しい子なんだ、と思う人がいたりする。
だがその不良は普段悪いことをしている、不良は良くないことをしているから不良なのだ。
本当は優しい?
違う、普段は悪いことをしている、そしてたまに優しいことをする。
それだけだ。
逆に普段優しい人間が、たまに優しくないことをすると、本当はそういうひどい人だったんだ、と思ってしまう人がたくさんいるがそれも違う。
たまに優しくないことをする姿も本当のその人だし、そして普段の優しい姿ももちろん本当のその人だ。
このように人の一面だけを見て、さらにそれがほんの一瞬なのにも関わらず、その一面だけで他人を評価してしまうのはとても危険だろう。
ただそのギャップに良くも悪くもショックを受けただけで、その人の9割は普段のその人だ。
本当の自分などというものは存在しない。
人間は環境や状況によって態度を変えたり、言動を変えたりすることがあるが、そのすべてが本当の自分だ。
たまに垣間見える普段とは違う自分、それだけが本当の自分などということはない。
すべての人間に対しての、すべての態度や言動、それを全部合わせたものが、本当の自分なのだ。